上手いこと言おうとする

わたしはよく上手いこと言おうとしてしまう。

上手いこと言おう、はウケたいとか爪痕を残したいとかそういう意味の上手いことのこと。

 

日頃からこの世に対して何か物申したいと思い続けている。

そのために世界のトレンドに貼りつき、詩を詠み、短編を書き、写真を撮って、ブログを始めた。かなり細々と。

世界を変えることはできないまでも、自分という尊い存在が大好きで、そんな価値ある自分から生まれる全部にも当然価値があると信じているからだ。

自分1人がそう信じられるだけで十分だと考えているし、公開することには評価されてしまうリスクがある。

 

一定の基準を超えない(ように見える)創作活動を続けていると「痛いねあの子」と揶揄されてしまいがちだ。

特に狭いコミュニティでは創作は評価する段階にまで届かずに、「なにか恥ずかしいことをしている痛いやつ」という付加価値しか生まないことがしばしばある。

思春期には周囲の審美眼や倫理観も整っていないことが多いため、創作を打ち明けることはかなりリスキーだ。身近な人たちからの評価を真に受けやすいので、その後の行動を制限してしまうことにも繋がりかねない。

そもそも創作をそこまで仰々しく捉えなくていいだろうに、何をここまで語っているんだ、と感じる人が多ければ嬉しい。

少なくともわたしは我流で曲を作っていた子を馬鹿にしてしまったこともあったし、詩を書きながら自分に酔っていた過去を未だに黒歴史だと言ってしまえる。そういう世界にいた。その一部を担っていた。

 

だけどもう、わたしはわたしの価値を過信することにした。

誰かに認められたいというごくごく一般的な承認欲求も、そのようなリスクを飲んで認めてあげることにした。

1番の理由はやめたくてもやめられなかったから。

その結果として辿り着いたのはインターネットだった。インターネットには創作を公開するための場所がたくさんある。

 

わたしはなるべく、褒められたかった。

褒められるほどに技術を磨いたこともないのだけど、少なくとも「価値がない」と目の前で切り捨てられるようなことはあってほしくなかった。

 

冒頭の「上手いこと言おう」に戻る。

わたしの好きな人たちはみんな言葉巧みだ。

説明が上手く、例えが上手く、ボケが上手く、ツッコミが上手い。

そういうものに触れた蓄積がだんだん自分をも言葉巧みにさせている感覚を生む。

実際のところ上手くなくても、発信までの背中を押してくれるように自信が湧く。

そのおかげでより、上手いこと言おうとする頻度は高くなる。

 

いいのか悪いのか

わからないけどこの話はもう終わり。

飽きちゃったからね

 

 

ウケたいなあ

 

じゃあね